昭和46年06月06日 朝の御理解



 御理解 第85節
 「女の身の上、月役、妊娠、つわりに、腹痛まず、腹帯をせずして、産前、身軽く、隣知らずの安産。産後、よかり物、団子汁をせず、生まれた子に五香いらず、母の乳をすぐ飲ませ、頭痛、血の道、虫気なし。不浄、毒断ちなし。平日のどおり。」

 昔から代々言い伝えられた事、または私共の少し許りの知識と、言った様なものが邪魔を致しまして、仲々このような風にすぐに、御教えをそのまま地で行くような、生活が出来ません。もう既にそこからおかげが違うて来るわけです。教祖様が天地の祖神様から、御知らせ受けられて、また自分がそれを頂かれて、体験を以て自分自身がそれを実証なさって、それを私共に教えて下さってある。
 ですからもう純粋に、それをそうと信じれるところから、それを素直に行動に表される、素直にそれを受けると言う、そこから私はそのような隣知らずの、安産のおかげと申します、血の道虫気なし、不浄毒断ちなし、平日の通りと言うようなおかげが受けられる。この御教えを頂くたびにその御教えを頂くのですけど、私共がなかなか教祖様はこう教えとられるけれどもと、けれどもを付ける、この御教えほどそれが守られてない、御教えはないと思います。
 何故かと言うと少し許りの私共の知識と、それと昔から人間が人間に言い伝えてきたこと、それを私共は信じておる。それを私共が本当の事のように思い間違っておる、そこから既に間違って来ておる、これは一切のおかげに繋がるのであります、仲々一番初めのところから間違っておる。それこそ赤子のような素直さを以て教祖の御教えは頂かして貰わねばならんのですけれども、私共の心が育ち過ぎておる。
 そして教祖が教えて下さる通りのおかげに仲々成らない、それを実行すると言うか、敢行すると言う随分な勇気が要る事である。二、三日前学院の末永さんから葉書が来ております。お夢の中に御神夢を頂いた、金光様から御神米を頂いた。その御知らせの包装紙の上に敢行とお書き下げ下さった、敢行とね、果敢、勇猛果敢と言うですね、あの敢行するです。大変勇気が要る、もう普通ではいけないのですけれども、そこに進軍ラッパなら進軍ラッパに、そういう心に一つの衝動を感じるような勢いで。
 前に前進すると言った様な敢行、私共が仲々ね、教えて下さってある事をそのまま神様はそう仰しゃるけれどもと言うて、その儘を実行する事が仲々出来ません。そこに次々と体験を頂いて参りますと、成る程神様が教えて下さる通りの事をして行けば良い事になって来る、それを私は段々体験を積んで行くところから、確信が生まれてくると言う事になる。そこを敢然として敢行する、そこをやってのけるこそ生神金光大神を一つの掛け声として、金光様で進んで行くと、そういう矢張り難しいものでありますね。
 昨日、昨夜壮年部会でございました。壮年部会でもお話した事ですけども、昨日私ある方のお届け聞かせて頂いて、いろいろ思わせられる事がありましてね、本当にその事に取り組んで思うて見た、大体私の心情と言うか、私の心と言うのは、何処に焦点が置いてあるだろうか、教祖様は人が助かる事さえ出来ればと、その為に様々な御修行を下さった。私はどう言うところに自分の御用の中心を置いて居るだろうかとそれを本当に、ただ人が助かる事が出来ればと仰せられるが。
 本当に助かって貰い度い程しの一心である事が、自分の心の中に感じ取らせて頂いた。ここに御神縁を頂かれる、いや御神縁を頂いていない人達の上に於いてもそうです、どうかほんとに金光様の信心が分かり、金光大神のお取り次を頂いて、例えばここの村中、町中の人達でない世界総氏子の人達が、本当に何とか助かる手段はないものだろうかと、自分が少しでも助かって行くこの様な場合、このようなおかげが受けられると言う体験を積んで行けば行く程、その思いが強うなっておる事に気付かせて頂いた。
 処がそれから先がね、いわば一心におかげを受けて頂きたい、助かって貰いたい一心なんだけれども、そういう事になっていない。助かって貰っていない、おかげを受けて貰っていないと、言うのが何処からどの辺のところから、それがそのように違って来るだろうかと言う事であります。まあいろいろございましょうけれども見た目には不同の扱いをしておる様でもと、私は昨日、自分の考えを述べさして頂いて。
 助かって貰いたいの一心だけれども、皆さんの目から見ると親先生が不同の扱いをしとんなさる、見た目には不同の扱いをしておる様でも、矢張りそうなんです、不同の扱いのように見える。それで昨日、壮年部の方達に一人々聞かせて頂いたんですけど、私は皆さんに不同の扱いをしておるでしょうかと、あなた方のそれぞれの思いを聞かせて下さいと、ま、いろいろに答えて下さった。ある人には冷たいようにある、ある人にだけ大変温かい親切のようである。
 それで私、久富繁雄さんに最後に聞きましたら、私は親先生から贔屓されとるとおもいます。秋永先生に聞くとそうは思いませんなあと、もう昔から久保山先生が仰しゃっとられた。家内に向かって「なあ奥さん、私とあなたは何時も親先生から悪う言われるばかり、秋永先生と久富繁雄さんだけは何時も親先生から褒められるばかりですもんの」と、話よんなさいましたが本当に事実にそうですからね。
 だから、それを不同の扱いと言うなら、私は一人一人に不同です。それを誰には親切にして誰には不親切と言うなら、もう本当に不同なのですけれども、昨日ある方が、親先生は本当に冷たい人だと初めの間は思いよりましたが、最近はそれどころか段々分かって来たと言われる。私のそういう不同の扱いをしておる様でも、実はね何処に焦点が絞ってあるかとい言うと、ただ助かって貰いたいの一心なのです。
 この事だけは同じなんです。処がただ今申しますように、贔屓されてると思うている人は良いでしょうけれども、自分は冷たく扱われていると思う人は日頃辛抱しておっても、いよいよ何かの時に直面すると、親先生はいつも自分を不同の扱いをしているとして、それが場合には堪えに堪えておつたのが、その怨にすらなって来兼ねないのであります。私は皆さんこれだけは同じ、まあ分かり易く言うならば、子供を喧しく叱って教えたって出来ない、場合にはおやつ位やってでも教育して行かねばならない。
 もう大きい兄ちやんの方になるとそういう訳にはいかない。おやつはやらん、やはり怒ってでも教えて行こうとする、けれども親の願い、親の思いとしては可愛い事は同じなんである。昨日それをね本当に追求して見た、大体私は本当に贔屓したり、贔屓しとらなかったり、贔屓しておるかどうかと言うこと、処がやはり形の上に於いては、贔屓しているかのように見えるけれども、もいっちょそこを煎じ詰めて見ると、ただ助かって貰いたいの一心が、甘くでたり、苦くでたり。
 辛く出たりしておるだけだと言う事を、自分に突きとめさせて頂いてね、心の中に一つの平常心と言うか、ああ、あの人は私が不同の扱いをしとる、又は親先生贔屓をされると言うふうに例え見られておっても、私がその人に掛けておる願いと言うか、思いと言うものは一心だと言うこと。どういう一心かと言うと、只助かって貰いたいの一心だと言うこと。そこでね、そこのところから誤解が生じて来ている。
 それが普通、何でもない時は何でもないけど、何かの時に直面した時に、自分は不同の扱いを受けておる、自分は冷たくされていると言うものが、もう信心は止めようと言う事になり兼ねないのである。実はそうではない、ただ助かって貰いたいの一心だけれども、これは天地の親神様に於いても同じ事が言えると思うのだけれども、神は平等におかげを授けると仰しゃっておるのに、違うじゃないか、けれどもね只一様に助かって貰いたいと言う御一心は同じである。
 私と皆さんの場合、例えば冷たい仕置を受けておる人、かと言うと撫でたり擦ったりしてやっておる人、誰が見ても不同の扱い、けれども私の心のもう一つ向こうには、冷たくしとる人にも、温かくしておる人にも、只助かって貰いたいの一心より外ないと言うことを自分自身、昨日せんじ詰めて考えさせて頂いての事ですが、そこんところをそうだと皆さんに分かって貰うと言う事、そこで私はこう言う事になって「皆さんと打ち解けたい、皆さんの方からも打ち解けて貰いたい」と言う事になって来た。
 皆さんと本当に打ち解けたい、同時に皆さんも又打ち解けて貰いたい、皆さんの心を心としなければならない様に、皆さんも亦、親先生の心を心として頂くところまで参りますと、冷たい仕打ちを受けておる様であっても、この様にして神様が可愛がって下さるんだと言うことになり、それは撫で擦りされる方でも同じ事が言える。この様にして育てておって下さるんだと言う同じ答えが出てくる。
 私はそこんとこまで書かせて頂いたら、神様からね、天地一如と言う事を頂いた。天地一の如しと言う、おかげを受けると言う事は、神様がおかげやりたいの一念であるならば、私共もおかげ受けたいの一念になる、その一念と一念が一つになる天地一如である。天地が一っになって喜び会える、陰と陽とが一つに合体して歓び合える。そこに宿らして貰うのがおかげなのである。
 その宿つたものが育てられて行く、いうならば十月十日という間に人間の形にもなりゃ、そして出産と言うこの世に順調に行きさえすれば、その様にしておかげは生みなされて来るのである。所が私共の場合何処にどう間違っておるのか、何時もおかげが流産から流産になったり、難産になったりして居ると言う事。私共が少しばかりの知識を持っておる、又は昔から人から人へと言い伝えられた事、それをやはり本当だと信じておる、天地の親神様は教祖様に対して、身軽く隣知らずの安産のおかげを下さろうとする。
 それにはです、腹帯をせずして産前産後身軽くと言うような事を仰しゃっておられる。けれども神様はそう仰しゃるけれども、昔からして来た事じゃから、やはり腹帯せにゃいかん、神様はそう教えておられるけれども、親先生はああ仰しゃるけれども、とその「けれども」を付けるところから、もう既におかげが少し狂い出した、それがそのまま育って行くから互い違いになって来るわけです。
 おかげが互い違いになって来る、その為にはです私がね、本当に神様の心が心として分からなければならん。だから此処んところをですね、私が皆さんと打ち解けたい、でないと誤解が生ずる、その誤解を生ずるような心の状態で、日頃ただ辛抱しとるからおかげがいつも互いが、互い違いになっておる事実をです、私共がね皆さんとてもが突き詰めて見て、自分が一心におかげを頂きたいと思っているのが、本当なのかどうかいっちょ思うて見て御覧なさい。
 神様は一心におかげやりたしの一念、これは私自身もここで御用さして頂きながら、見た目には不同の扱いをしておる様に見えるけども、その実はおかげ頂いて貰いたいの一念であると言うこと。そこに百人百様同じでないと言うこと、そこで或る人は、ああ親先生は私に贔屓してござるばいなと思う人があるかも知れん、親先生は私に対してえらい冷たいと思う人があるかも知れん、けれども本当のこと言うたら、おかげ頂いて貰いたい一念だ、一心だと言う事を分かって貰うと言うこと。
 先生は、不同の扱いをしよんなさる、もうそう、先生はあげん言いよんなさるばってん、そこからおかげが互い違い、もうそこから狂い出してる、そこから既におかげがどうして、おかげが受けられん筈がないのに、受けられんじゃろうかと思いよると、そういう様にどこか互い違いになって、やはり流産から流産、難産から難産と何時までも何時までも苦労が続くと言う事になる。
 これはもう絶対の理と言うか、十月十日でおかげ受けにゃんごとなっとると、その人が例えば「けれども」を付けずに、ああ教えて下さるからと、それを素直に受けて行くならば、おかげは間違いないのだけれど、場合には敢行する心がない躊躇する心、さあ右の方へ行きなさいと言うとでも先生、先生はあげんして右の方へ行けと仰しゃったけれども、都合でとうとう左の方へ参りました、と言うてしまう。敢行精神がない。
 そう何時もかつも、おかげを受ける材料と言うもの、何時もかつもあるもんじゃない。だから私共が本当にです、これこそおかげが宿ったと思われる様なとき、心の中に、そこから宿ったものを神の氏子が胎内に宿ったと思うて、大事にして行かなければならない。神の氏子が我が胎内におると思うて大切にせよと、八十七節にはあります様にです、私共の心の中にこれがおかげの基になると言うものを感じた時、それを大事に大事に大切にして行かなけりゃならん。
 神の氏子が胎内に宿ったと思うて、神様がおかげのもとを此処に下さったと思うて、それを大事にして行かなければならん。私共はそれをそれと気付いては居なかったけれども、私共が終戦そして引き揚げ、初めて今までの信心が間違ってた事に気付かせて頂いた。それから全ての事を、徹底的に自分の力の限りを絞って、間違いのない様に、間違いのない様にと言う、いわば生き方をしたと言う事は。
 終戦という引上げという、家族中のものが無一物同様で塗炭の苦しみの中に、投げ出されたと言う時に今日のおかげが誕生する基が宿った、その基をです本当に人のせいとか、お国のせいにせずして、それをまともから合掌して受けたその時に妊娠のおかげを頂いたとは思って居なかった。これがおかげの基になるとは思っていなかった。ただ助かりたいの一念、一心だけであった。その助かりたいの一心がです、なら本当に助かる事の為には、なら真心になれよと言われたら真心の限りをです。
 これが真心と思う限りを、尽くさして貰ったし、御用せにゃ助からんと、言われりゃもう御用の限りを、尽くさして頂いたし、朝参りせにゃいかんと言われりゃ、もう本当に朝参りの限りを尽くさせて頂いたし、それがその時に宿ったおかげを、私の心の中に頂いた事になっておったと今にして気が付くが、おかげを頂きたいの一念、一心であった。そこで皆さんに私が言ってる事は、果たして一心におかげを頂きたいと言う心があるや、否やと言うことである。
 神様はおかげ頂かしたいの一念、私もおかげ貰いたいの一念が、場合に依っては不同の扱いをしている様に見えるような、お取次させて頂いておるが、その底の底は自分自身洗って見て、本当に自分は不同の扱いをして居るのであろうか、贔屓して居るのであろうかと、思うて見たらそうではなかった。答えは、この人に本当におかげを頂いて貰らわんならん事に気が付いたが、なら皆さんとてもです、私が終戦引上げ、その当時私が感じておった様に本気で一心におかげを頂かんならんと言う。
 一念が燃えているかどうか、燃えて居るならばそのおかげ頂く為には、次の修行がなされなければならない筈なのである。宿ったものをいよいよ、神の氏子が胎内に宿ったと思って、大切にせよと仰しゃる様にです、そこの難儀なら難儀と言うものを、実意丁寧を以て、それを頂いて行くと言う内にです、これは私の場合何時おかげを受けたか分からない様にして、おかげを受けておる。いわゆる隣知らずの安産のおかげを、受けて居ったと言う事なんです。
 しかも一つも腹は痛んでいなかったと言う事。考えて見てあの時分の修行は大変な修行ではあった。例えば成り行きを大切にすると言った様な事なんかは、けどもその時には私はその事を一つも難儀な事とか、苦労とか思ってなかったと言うことを今思うです。受けるならもう受けると決めたもんじゃから、もう受ける事に決め切って終っているから、成る程安産のおかげ頂く筈だ、隣知らずの安産が受けられる。その調子を以て、合楽は今日迄おかげを受けて来た事になります。
 だから皆さんとてもです、そこんところの一念、おかげ頂きたいから参りよるとですよと言わずに、その参っている内容と言うものが、先生はあげん言いなさるばってんの、と言う様なです、「ばってんとか」「けれども」をつけては居らぬか、一心と言いよるばってん、二心にも三心にもなっては居らんか、本当におかげ頂きたいの一心ならばです、こういう風に在らなければおかげは受けられんぞと教えられることを、一心に守り行じておるかどうか、そう一心に願っておる様であっても敢行精神がないから。
 生神金光大神を掛け声にして立ち上がると言う事が出来ずにです、何時も流産の憂き目を見ておるのではないかと思うて見て、それこそ目をつぶって、先生は右と仰しゃるけれどもと、けれどもと言わずに本気でそこのところを私は、頂いて行かれる内にです、神様の心も分かり、親先生の心も分かり、いわゆる親先生からも分かって貰い、親先生の心を心として、皆さんの心を心としてのお取次が出来るところから、何に災いされる事もないおかげが次々と頂けて行く事になると私は思うのです。
 もっともっと私共の信心がね、純粋度というか、を高めていかねばならん。自分の知識で、例えば自分が勉強して分かったと言う様なことは未だ未だ本当の事じゃない、本当に妊娠のおかげを頂いて腹帯はせんでも良いぞと仰しゃったら、「はい」と素直に腹帯を抜けられる、例えば敢行精神。この辺のところは仲々難しい、生まれた子に五香要らず、母の乳をすぐ飲ませと言う様なところね。
 これは妊娠だけの事じゃないですよ、今の常識から言うならばです、そげな馬鹿なと言うような事であっても、日常お取次頂かして貰うて、それだけはそげな訳には行きませんと言う様な事の場合であっても、それこそ目をつぶって一つ敢行精神を以て、生神金光大神を掛け声にしてそこを乗り越えて行くと言うこと。その先きに成る程、頭痛、血の道、虫気なし、不浄毒断ちなしと言うのも、平日の通りと言うおかげが受けられる訳であります。先ず私と皆さんとの間に、本当に解け合うもの。
 そしてこれは信じて下さい、信じて貰いたいと言うものはね、もう私は助かって貰いたいの一心しか、此処にこれだけの沢山の人が居られますけど、一人一人に願う事はそこばっかりと言うこと、そこんところを本当、かどうかを確かめて頂く、追求して頂いて、先生は不同の扱いをする贔屓をすると言う風で、もう例えば言わずに、そう疑わしかったらその事をもう一つ追求して見てです。
 そういう誤解があるならば、誤解を解いて行くところまで、私とあなた方、私共と神様との間がです、解け合って参りますとき、皆さんの心を心とし、私の心を皆さんの心としたいと言うことになって来る。氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますからと言う様なスムーズなおかげに成って来る、どうでしょう、神様が本当に私共任せになって下さったら、それは大変な事なのです。
 それには先ず私共が、親先生は先ずそんな風な扱いをなさる事はない、おかげ頂かしたいの一念が、ああして居られるんだ、あの様に冷たい仕打ちの様だけれどもと、そこを分からして頂く所から、氏子任せになると仰せられる、おかげがです頂かれて行くと言うふうに思うのです。今日は八十五節をその様なふうにアレンヂして頂いたわけですね。
   どうぞ。